
ロッカヴェラーノの南側の景色。
ピエモンテ州下では「アンチョエ Ancioe'」、「アンチョヴェ Anciove'」など様々なバリエーションの名称で呼ばれるアンチョビ商人や塩の商人が、リグーリア州の海や港からの物産をロバやラバの背に乗せ、このように幾重にも重なった丘を越えて売り歩いていた。
斜面を見下ろして目を凝らすと、そういった人と家畜の往来によって踏み固められた小径 --- 棚田状にしつらえられた耕地や放牧地の畔(あぜ)道とも重複している --- がうっすらと見えて来る。
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昨日、年に精々一度か二度しか行わない、ロビオーラ Robiola というアスティ県下ロッカヴェラーノ Roccaverano 地区特産のチーズの生産農家での直接の買い出しに出かけた。
この買い出しは家人のレストランの仕入れのためではなく、私が平素お世話になっている方々に心ばかりの贈り物をするためだけに行っていること。
ロッカヴェラーノはアスティ県の最南端に近いランガ・アスティジャーナ Langa Astigiana(ランゲ地方のうち、アスティ県下に含まれる地域)の、海抜800m以上と最も標高が高いところにある。東西南北、どこを見回しても果てしなく丘が見えるだけ。

画像に写った塔は、中世以降、食料事情が極めて厳しかったため、北アフリカのベルベル人から、サラセン人やゲルマン系まで、近辺を通過しては略奪におよぶ者たちが絶えなかったこの地域によく見られる周辺監視、食料貯蔵と防御のための構築物。
後の世にはそういった塔に建て増しをして建造されていった城も多い。
リグーリア州に上陸したら、アラブ産の馬を駆れば、この辺りには軽く一日くらいで到着できただろう。
人々の血にもケルト人、ゲルマン人、アラブ人の遺伝子が入っているし、ピエモンテ方言にも少数ながらアラブ系の語源を持つ言葉も存在している。
都市部から隔絶した地域の農家は、上の画像に写った農家もそうであるように、規模が大きい。
重なるひだのように丘が連なるこういった地形では、移動にはとてつもなく時間が掛かる上、生産農家には、世界の果てかと思われるほど、最寄りの公共の交通機関からさえ、徒歩なら最低数時間以上かかるような場所にあるお宅も多い。
車というものがなかった頃には、各戸でかなり完成した自給体制を持つしかなかったし、元々人類が定住し始めてからというもの、ずっとそれが当たり前だった。
私がロビオーラの買い出しに訪れるお宅も下の画像のような規模。
まるで修道院のように、用途別にいくつもの建物がある。

(常々厩舎やチーズ製造風景、いつも私の相手をして下さる奥さんの写真も撮れればとは思うのだが、やはり私邸でなさっていることなので、遠慮することにしている。)
そのお宅の周囲少なくとも数平方キロメートルには、お隣さんの世帯というものがない。

なぜそんなところまで直接買い出しに出かけるのか。
それは、伝統の山羊乳だけのロビオーラは市場には出回らないからなのだ。
街で年中いつでも買えるロビオーラは、年間ずっと安定供給出来るよう、牛乳ないし牛乳+羊乳で生産されたものであることが多い。
山羊乳は、仔山羊が生まれて育つ季節にしか得ることが出来ないのだ。
母山羊のコンディションによるが、仔山羊は通常年に二度、晩秋と春頃に生まれる。
春生まれの仔山羊はしばらく母山羊の乳を飲んで育ち、復活祭の料理のために売られていくことになる。
仔山羊が離れてもまだ出続ける母山羊の乳で、春の本格的なロビオーラの生産が行われる。
が、特別美味しいロビオーラを作る農家のものは、まことにすぐに売り切れてしまう。
今年の復活祭は4月の中旬。
本格的な生産にはまだ間があり、やや品薄なこの時期だが、あらかじめ農家さんに何度か電話で様子を尋ね、今回必要だっただけの数のロビオーラがそろう見通しだった昨日にアポを取っておいてお邪魔したのだ。
復活祭後の生産はフル回転だけれど、その時期が買いやすいと皆が知っているので、すぐに売り切れてしまうだろう。
電話で互いに相手に遠慮しつつ、こんなやり取りをする。
「今この時期には、大体何個くらい在庫がおありですか?」
「おいくつお要り用ですか?」
「7〜8個くらい・・・と考えていたのですが。」
「8個・・・ちょうど8個なら大丈夫でしょう、では取っておきます。
いつ来られますか」
「木曜日の午前か、そちらのご都合がつかなければ
それ以降のいつでも指定して下さい」
「木曜日の午前、大丈夫ですよ」
そこの奥さんとは顔見知りではあるけれど
「今回は8個も予約させていただくのだから、
私の名前と電話番号をお渡ししなければ」
と言ったところ、
「いいえ、何もおっしゃらなくとも、直接いらして下さいな」
と、こちらが心配になるほど全面的に信用して下さった。
*
当地の農家に、犬を最低二匹飼っていない家はないのではないだろうか。
農家の主婦は在宅していると言っても、朝も早くから夕方日が落ちるまで、何かとすぐに手を放せない仕事がある。
厩舎で山羊の世話をしているかも知れないし、チーズを作っている最中かも知れない。
チーズの熟成は最近の法律では近代的な熟成庫で行うことになっているようだが、サラミの類いは現在も大抵、地下室にある。
郵便配達が来ても来客があっても、そんなにすぐには出られないのだ。
それでも、人が来て呼び鈴を鳴らすより先に吠え始める犬たちが庭先にいてくれれば、多少は早く出ることが出来る。
犬たちがけたたましく吠え続けて5分かもっと経って、厩舎があると思われる建物の奥から息を切らして奥さんが出て来た。
「ちょっと山羊の世話の最中で、こんな格好。
着替えることも出来ず、すみませんね」
「何をおっしゃいますやら、お仕事中ですもの、どうかお気遣いなく」
そして同じ建物を入ったところにあるチーズ製造スペースに招き入れて下さった。
ただし、道具類はもっと奥に置かれており、そこにはステンレスの大きな作業台があるのみ。
作業台の一角には中に少し山羊の乳が入ったバケツだけがぽつんと置かれていた。
奥さんはロビオーラ用の包装紙を取り出して作業台の上に置くと、奥の部屋からロビオーラを両手にひとつずつ取って来ては、包装紙にくるくると包み始めた。
「ほら、朝一番に搾った山羊の乳での作り立てですよ。
今はロビオーラ作りに充てられる乳がまだ少ないし
一部はカッリオ caglio(凝乳酵素のこと)の入れ過ぎでうまく出来なかったので、
ホントに8個だけですけど」
「ああ、やはり山羊乳のコンディションによっては
カッリオの量の調整が難しいこともあるんでしょうね」
「そうなんですよ」
こんな時に、正直、いつも思うことは・・・。
どんなに売るために作っていらっしゃるとは言っても、こんなに美味しいものをお作りなのに、自家消費分も取って置けずご自分やご家族の口に入らないとなると、あまりにも気の毒すぎる。
私は食いしん坊なので、人への贈り物に要るのが8個でも、奥さんがもし10個ありますよとおっしゃれば10個買ってしまう。
だから、たとえまだ自家消費分が残っていても、どうかそういったことはあまり正直におっしゃいませんように、と内心祈ってしまった。
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これはまさしく作り立てのつやつやしたフレッシュなロビオーラ。
一週間、二週間と経つうちに、表面はまず白カビに薄く覆われ、数ヶ月も熟成されるとイエローオーカー、グレー、オレンジなどの色が微妙に混ざり合ったカビのかなり頑丈な層が出来る。
うちの地元でいつも我々家族を気に掛けて下さる人々に「ひとつお届けするものがあるから」と電話一本だけ掛けておいて、これを一、二個玄関先でお渡しするのだ。
彼らはこれが安価な贈り物であることはもちろん知っているが、年に二度、のべ二、三ヶ月の間しか手に入らないことや、これを買って来るという行為が数週間前からプログラムされ、上記のような「儀式」を経たものであることも知っている。
しかし我々家族の感謝の気持ちが彼らに伝わるとすれば、それは究極的には、昔から何ひとつ変わっていない正統な製法を守っている生産者ご一家がいらっしゃり、その生産物の類い稀に上品な味わいが存在してくれているお蔭、これに尽きると思っている。
つまりこれは
「他人(ひと)への心づくしの感謝を伝えるため、
確信犯的に、しかし精一杯誠実に、懸命に、
『別の他人(ひと)の褌で相撲を取らせていただく』行為である」
・・・そんな風に思っている。
ロビオーラ農家の奥さん、いつも本当にありがとうございます。
(このコンテンツはいつも仲良くして下さっている
けいさんに捧げたいと思います。)
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